沖ヒカル誕生の歴史を聞いてみたら、パチンコ、パチスロに詳しい「麻雀業界の人」でした (3/6)
副編集長からフリー編集長へ、そして「沖ヒカル」誕生へ
ここでようやく「沖ヒカル」登場ですそこから副編集長になられるということなんですが、副編集長ってどんなお仕事をされるんですか?
まぁ、若手編集部員みたいにバリバリは作らないんですけど、ちょっと自分の担当ページを持ったり、周りの人が作ったページをチェックしたり、校正作業をしたり。
要は編集長と編集部員を繋ぐパイプ役と言いますか、中間管理職的な感じですね。
そこからフリーになられるというのは何かきっかけがあったんですか?
もうめちゃくちゃありますよ!きっかけは「中間管理職的な感じだったのでちょっと嫌だ」っていうのと、あと2つあるんです。1つは真面目なパターンというか、両方真実なんですけど。
その1は俺、正直仕事できたんですね。何やっても多分80点くらいできるタイプの人なんですよ。だからもちろん早めに副編集長にも上がったし、このままいったら編集長になって、編集部長になって、編集○○になって…って「とにかく白夜書房で出世していっちゃうな、最終的には取締役的なのに多分なる器だな」と思っちゃったんですよ。器というか、その道が見えちゃったんですよ。
給料も大体わかるし、安定してるし。超つまんねぇじゃんってマジで思ったんです。まあ、結果実際は安定してなかったですけど、その時は安定してたので。
将来的なものが見えてしまった、ということですね。
もう1つは29~30歳の時に沖スロにどっぷりハマりまして。「できれば平日の昼間から俺は打ちたい!」って心から思ったんですよ。
そのためにはどうすればいいのか、「フリーになったら仕事を自分で調整して、好きな時にバッチリいけるじゃん!」って思ったんですね。
社員だと月~金までは会社にいなきゃいけないというのが基本だったので、だからフリーを選びましたね。
ここからフリーライターになり、タレントライターへと移行していくと。
そう。フリーライターになってからの5、6年は編集ライターとして本当に裏方の仕事ばかりしていましたね。
出役ではなくて雑誌の?
そうです。たまーに出役で出るんですけど、まだ違う名前でやってたので「沖ヒカル」でもなかったですし。
自分でページを作って、自分で書いて、いわゆるマルチライターですね。「内池にここからここまで任す」みたいな。
その頃もガイドの誌面をされていたんですか?
その頃に結構やっていたのは増刊ですね。ガイドもたまにやってましたけど。ガイドで作られたページをデータでもらって、それを組み直して。
例えば「北斗の拳究極攻略」っていう、過去最大に売れた増刊誌があるんですけど、そういうのは全部僕がやってましたね。
その時はまだ「沖ヒカル」ではない?
ではないです。本当に編集ライターで、地味な人でしたよ。
そこから「タレントライター沖ヒカル」になったのはまた違うきっかけが?
そうですね。簡単に言うと「映像の仕事を徐々に受け始めた」ところからですね。
それは「出役になるから名前を変えていこう」という感じですか?
いや、編集ライターをやってる時にだんだん名前出しの面白おかしい原稿も書くようになったんです。
その時に沖スロの連載を月1で持ってたんですけど、むちゃくちゃ負けてた時期があって。「これはマジで流れを変えなきゃ」っていうので「名前が悪いんじゃね?」って結構マジで思って。
負けすぎて「何かを変えなきゃ」ってときはありますね。
「沖スロで勝つためにはどういう名前がいいんだろう?」ってスゲー考えて、沖スロってハナが光るから
ハナ光る→沖光る→沖ヒカルでいこう!
って自分で勝手に決めたんです。そこから沖ヒカルっていう名前にして連載を続けてたら、丁度「南国育ち」っていう台が出始めた頃で、「あれ?こいつ沖スロ好きなんだったら仕事振ってもいいんじゃね?」っていう感じで重宝されるようになったんですよね。
沖スロも普通に勝てるように戻ってきて、その時に「やっぱり名前って大事だな」って思いましたね。
では、改名効果がむちゃくちゃあったんですね。
改名効果むちゃくちゃありました。むちゃくちゃ稼ぎましたよ、初期の沖ヒカルは。特に南国育ちでね。
「沖ヒカル(初期)」はむちゃくちゃ勝っていたみたいですういちさんに前回このインタビューでお聞きした時に、沖さんがタレントライターとしての番組出演や来店イベントになかなか最後まで出ない人だったと。
そうなんです。実は最後まで頑なに拒んでたんです。
なんでかっていうと、もともと考え方が古いというか、「パチンコ・パチスロライターってこういう仕事じゃない」って時代に入ってるんで…。
雑誌を作る人とTVや動画に出る人とは違う、みたいな。
そう!だから、かたくなに映像の仕事とか、特にイベント系の仕事を断ってたんですね。色んな人から誘われて、ど~してもの時だけ行ってたんですよ、もうお金とか関係なく。
なんでかって言うと、僕が入った頃は「パチンコ・パチスロライターっていうのは普通にパチンコ・パチスロ打って、記事を書いて、編集して…」って、そういう仕事だと思ってたんですよ。
なのに、人前でしかもパチンコ屋さんのマイク使って自己紹介とかって(笑)
今までのキャリアにはない(笑)
「え~、どうも沖ヒカルでございます。今日は○○で~」とか考えらんない!「俺はそんな事をするためにこの業界に入ったわけじゃない」って、かたくなに拒んでたんです。
それがまさにういちさんから「『おもスロいテレビ』っていうのを一緒にやってくれないか」って言われて。僕は元々裏方の脳なんですけど、出るのも嫌いじゃないタイプだったので「あ~全然いいですよ」って2つ返事でお受けして、そこからですね。
そこがスタートですね。
その「おもスロいテレビ」に出始めた頃に、まだ他の記事とかの仕事もしてたんですよ。その時にパニック7っていう漫画雑誌があるんですけど、当時の編集長でケイトクさんって方がいて、もう亡くなられたんですけど。
喫煙所で煙草吸ってる時に「いや~なんとかかんとかで、こういう仕事もちょっとずつ受けてるんですよね。でもこうじゃないと思うんですよね」って言ったら「いやいや、ライターってもう人気商売だよ」ってボソッと言われたんです。
その時ぐわーーーんってなって「えっ!?ライターって人気商売なんだ!」って、忘れもしない。あまりにもショックで。
かなり衝撃的な一言だったんですね。
じゃあ「俺は人気商売の方に行っちゃってんの?」みたいなのをすんげーグルグルグルグル考えるようになって、その時の日記とかも本になってますけど、あまりにも衝撃で。
そういうのがあって色々吹っ切れたんですよね。「人気商売なんだったら、視聴者の人とか僕の事好きな人とかと直接話すのも仕事の1つなんだ~」って割り切るようになって。
そこからさらに露出が増えるとそういう仕事も増えるじゃないですか、そういう仕事が増えると僕の事を好きな人がまた増えるじゃないですか、そしたらさらにまた仕事が増えて露出が増えてっていう、すごく良いスパイラルがそこから始まったわけですね、バーンとね。
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