沖ヒカル誕生の歴史を聞いてみたら、パチンコ、パチスロに詳しい「麻雀業界の人」でした (2/6)
「パチ/スロの人」じゃなくて「麻雀の人」
内池青年の上京物語です沖さんのご出身は滋賀県ということなんですが、東京に出られたのは何かきっかけがあったんですか?
東京へは代々木にあったマスコミの専門学校に入るためですね。
家が関西なんですけど、血筋というか、親戚関係が全員関東なんですよ。横浜と東京だけなんです。
内池家だけが何故か滋賀にあって、うちの父親も東京人なので、僕は関東と関西のハーフだったんですけど、親戚が全員東京にいるので「もし専門学校に行くんだったら、叔父さんが東京にいるから居候させてもらってやってみるか?」って。
それで、先ほどの編集アルバイトの募集を見つけた流れに?
いや、全然違います!
リンクしてないんですか?
当時は竹書房という出版社に入りたかったので上京しました。「近代麻雀」っていう漫画雑誌を出版されてるところですね。そのために代々木の「東京スクール・オブ・ビジネス」のマスコミ広報科に入ったんですよ。
代々木駅から学校までが1分半くらいで、その真ん中辺りにパチンコ屋さんと雀荘があったんですよね。1階はパチンコ屋、4階が雀荘で。
そりゃあ、行きますよね(笑)
それは行っちゃいますね(笑)
ちょうど間に雀荘があったらしいですいつの間にか学校行かないでそっちばっかり行くようになったら、その麻雀店の店長さんに「内池君、そんなにここが好きだったら働いてみる?」って言っていただいて、僕メンバーやるの夢だったので「いいんですか」って言って。
代々木で学生さん中心の街だから、怖い人もいないし。「ぜひやらせてください!」って言ったら3ヵ月後くらいにはもう学校辞めてたんです(笑)
あははは(笑)
雀荘のメンバーを2~3年やって、そこから他のバイトやったり。僕が20代前半の頃ってフリーター全盛時代で「一生フリーターで楽しく生きていける」ってみんなが思ってた。
バブルの残り香がまだちょっとあったぐらいだったので、だから「バイトで楽しく稼げるし、これでいいや」って、色んなことをやってたんです。
原宿のタレントショップやったり、あと珈琲館っていう喫茶店の雇われ社員やったり、本屋さんでも働いたし、小学館の子会社でも働いたし。
色々やられてたんですね。
その中のメインが麻雀店だったんです。
パチンコももちろん好きでやってたんですけど、23~24歳くらいになって「フラフラしてちょっと不安」というか、「何かやらなきゃいけないんじゃないか」的なことを思うようになって。
ビーイングとかフロムエーとかをちょこちょこ読み始めてたら、白夜書房の求人があって。「あ、これパチンコ雑誌だ、知ってる。必勝ガイドのところだ。入ってみたい」っていうので、面接を受けて一発で受かったという。そういう経歴がありますね。
おお!そこで繋がるんですね。
だから最初に言っときますけど、誤解してほしくないのは、僕はもともと麻雀業界の人間なんです。
それが20代の真ん中からパチンコ・パチスロ業界に居させてもらってるだけなんです。
パチスロライターが片手間で麻雀プロやってるわけじゃないんです。逆なんですね。
「麻雀プロがスロット・パチンコを打っている」と。
そう。もうそういう風に考えていただいていいです。
では、ガイドでやっていた頃から沖さんの根っこの部分には麻雀が。
そうです。麻雀があるんですよね。
プロになったのはこの7年くらいなんですけど、とにかく僕は麻雀業界の人です。
「そんな人間がパチ/スロに来たよ」っていう。そこを勘違いしている人すっげー多いんですよ。
そうですね「パチスロの人」っていうイメージが多いですよね。
そうなんですよ。心外ですよ(笑)
「沖さんは麻雀業界の人です」テストに出るところですねいいね!する
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