沖ヒカル誕生の歴史を聞いてみたら、パチンコ、パチスロに詳しい「麻雀業界の人」でした (4/6)
大偉業「パチスロ大図鑑2001」
お仕事のお話ですその中で印象に残った仕事を3つほど挙げていただいたんですけど。
俺なんて書きました?
「パチスロ大図鑑2001作成」
4号機の頃でしたっけ?すごく分厚い本の。
そうです。僕が30歳で白夜を辞めるんですけど、その置き土産というか。僕が白夜書房で唯一、自分で企画書を書いて企画を出して通して作った雑誌ですね。
雑誌というか5000円くらいして、めっちゃ分厚いんですよ。
やっぱり制作自体はすごく大変でしたか?
もう!あのね、それまで雑誌の編集の人って徹夜が続くとか言うじゃない?あんなの嘘で、徹夜する奴なんて正直、仕事ができないバカなんで、僕は徹夜なんて一切してなかったんです。ちゃんと家帰って。
ただ、その図鑑を作る時はやっぱ3~4日は普通に編集部にいました。ずーっと1人で朝から晩までやってました。まあ、楽しかったんですよ。
編集自体はお1人でされてたわけではないんですか?
基本フォーマットで膨大な数の台の写真があり、リール配列があり、払出表があり、確率表があり、文章がありっていうのを自分で全部やるわけじゃないんですよ。
人に任せるんですけど、編集が10人とかライターさん10人とかブワーっているのを僕が全部仕切ってやってたんで、もうあっちゃこっちゃ、こっちゃあっちゃで。
ものすごいページ数と機種数で、チェックもしなきゃいけない、これも作んなきゃいけないっていうので、大変だった。1番大変でしたね。
5号機、6号機でもう一度同じような企画の話が来たらどうですか。
やらないです。絶対にやらないです(笑)
やらないですか(笑)
もうそんな情熱がないです。やっぱり「何でその大図鑑をやりたかったのか」っていうと。
僕が編集という仕事を、白夜書房を辞めるにあたって、過去のパチスロ台を残しておきたかったんですよね。
ただの過去の台じゃなくて、0号機とかなんならその前の沖縄にしかなかった台っていっぱいあるんですよ。まだパチスロっていう名前ができる前の台が何台もあったりして、それもやっぱり沖縄取材に行って、全部写真撮って帰ってきて作ってとかをやったんですよ。
かなりこだわって作られたんですね。お話だけでも情熱が伝わります。
めっちゃ楽しかったですよ。綺麗なの何冊か家にあるんですよ、いまだにそれ見るとやっぱ嬉しいですもん。
「うわ~、これだよな~!」って。僕らの世代の人には「あの図鑑はすごかった」っていまだに言われますよ。
ルーキー酒井さんも100冊買ってくれたんですよ。
えー!
50万円ですよ!それを色んな人に配ってくれて。
その頃の酒井さんはフリーになってて、全然違う雑誌の人だったんですけど「すごく良かったよ」って初めてほめてもらいました。本当に(笑)
続いて「石川県7店舗巡り」とありますが。
ああ、これは印象に残ったというか、イベント業務とか来店業務をやるようになって、過去最高に意味がわかんなくて大変だったのが、石川県のチェーン店7店舗巡りっていう。
石川県ってそれぞれのお店が結構コンパクトに収まっているようで、能登半島っていうんですかね?ギューンと上にあって、そこに七尾っていう土地があるんですけど、その七尾のお店も行くんですよ。
だから、真ん中辺りの6店舗行ってギューンと七尾!みたいなので。
1日で回るんですか?
そう、1日。1日っていうか6~7時間くらい。だから1店舗あたりの滞在時間が15分だったんですよ。それでも実戦するんです。
それこそハナハナやジャグラーしか打てないですね。
もうジャグラーオンリー。ジャグラーを1000~2000円で、なんか喋って帰るっていうね。
いや、我ながらよくわかんないなと思って、面白かったですね。
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