「月刊パチマガスロマガ」の永山編集長と人生グラフを振り返る!ポロリとの感涙エピソードも! (1/4)
月刊パチマガスロマガ/永山編集長
大学卒業後に物流会社に入社するも、営業中にパチスロばかり打つ典型的なサボリーマンに。退職後はパチスロで収入を得つつバンド活動に勤しむ。ある日スロマガの求人に応募するも、なぜか採用されたのはパチマガ編集部。そして現在に至る。- 公式サイト
- https://www.pachimaga.com/
- 公式ツイッター
- https://twitter.com/pmgpmgjp
- YouTube公式チャンネル
- https://www.youtube.com/user/slomaga/featured
「エキスパート」、月刊パチマガスロマガ/永山編集長編最終回です。
今回は今まで様々なお話をしてくださった永山編集長ご自身について深く伺ってきました。
一般ではなかなか知る機会のない雑誌編集長の私生活など、人生の裏側に迫ります!
100点から-100点まで波乱万丈の人生グラフ!人生最大のどん底を救ったのはあの有名ライターだった!
ここからは、永山編集長ご自身についてお伺いします。
事前アンケートと一緒にお願いしていた人生グラフがこちらですね。
はい!パチンコ系でまとめてみました!
お忙しい中ありがとうございました(笑)。気になるワードがいくつかありますので、各時代ごとに詳しくお話しいただこうと思います。まずは100点をつけられている幼少期から。
そうですね、当時は子どもが親とパチ屋に行くのは当たり前で、両親がパチンコ好きということもありよく連れて行かれたんですよね。
そこで幼稚園児の頃はトミカ、小学校高学年ではファミコンのカセットをいっぱい取ってもらいまして。拾った玉でジュースも飲めたので、まさに天国!という感じでした(笑)
編集長が子どもの頃というと、40年近く前の話ですか?大らかな時代ですね(笑)
その通りで(笑)。幸か不幸か、パチンコ情操教育に熱心な両親から英才教育を受けて育ちました(笑)
次に、高校3年生のときにパチンコ初体験と(笑)
まあ25年前の話なので、大めに見てもらいたいんですが(笑)
当時放送されていた「DAISUKI!」という深夜番組で現金機の「弾丸物語SP」を打っていて、「楽しそうだなー」と思いまして。予備校の自習終わりにこっそり一人でパチンコ屋さんに入ってみたんですよ。
で、ヒヤヒヤコソコソとなけなしの数千円で打ってみたら見事大当りして。嬉しさと背徳感で味わったことのない興奮を覚えました(笑)。これがパチンコの初体験ですね。
「DAISUKI!」は松本明子、飯島直子、中山秀征がレギュラーで出演していた人気バラエティ番組ですね。学生が深夜番組の影響で初体験というのが、すごくリアルに感じます(笑)
いや〜、あの体験は忘れられないですね(笑)。その日を境に泥沼のパチンコ人生が始まるわけです。
ちなみに最近、同世代のチャーミー中元さんから伺った話では、チャーミーさんも初体験は弾丸物語SPだそうで。すごくシンパシーを感じました(笑)
僕自身は遊技したことはないですが、今度動画を探して見てみます(笑)
※後日確認したところ、大当りラウンド中のセクシー美女を見て当時の永山少年の心境とシンクロしました(笑)。気になる方は「弾丸物語SP」で検索してみてください!
浪人生、大学生、最初の就職がどれも50点をつけられていますが、この頃はどういった感じだったんでしょう?
勉強や仕事もろくにせず、ひたすら打ちまくる中毒状態でしたね(笑)。
大学受験の日も試験終わりにパチンコ打ってましたし、大学の卒業旅行では一人で名古屋に裏モノ打ちに行ってタコ負けして帰りました(笑)。
頭までどっぷり沼に沈んでますね(笑)。仕事もろくにせずっていうのが、アンケートにもあったいわゆる「サボリーマン」時代。
そうですね。東京のオフィス街にある大きい会社だったんですけど、営業で外に出るたびパチスロ打ってました(笑)。当時は小さいホールが街にたくさんあって、パチ屋の位置を頼りに地図を覚えていたくらいで。
ただ、片道2時間半かけた通勤に心が折れてしまって。当時の商材も愛せなかったので、2年と経たずに退社しましたね。
片道2時間半は心折れますね…
まあ、それよりも「商材を愛せなかった」というのが自分の中で大きくて、「今度は愛せるものを作る側の人間になりたい」と決めた時でもありました。
その経験が80点のプラントピア入社に繋がるんでしょうか?
ところがすぐには繋がらなくて。一応そのあと税理士の専門学校に入学したんですが、並行してバンド活動もしているようなニート状態だったんですね。
そして主な収入源はパチスロっていう二重三重の生活の中で、父が病気で倒れまして。やむを得ず就職することになったわけです。
ということは、最初はそこまで積極的な動機ではなかった。
そうですね。ただ、「どうせならパチンコ系が良い!」っていうことで調べてみたところ、パチマガ&スロマガの当時編集プロダクションだったプラントピアで求人があり、試しに応募したらあっという間に入社が決まったんですね(笑)
トントン拍子で(笑)
そうなんですよ(笑)。当時のプラントピアはニートでも簡単に受かる会社でした(笑)
その次の2005年〜2014年も80点ということですが、この頃はどういう時期なんでしょう?
入社してすぐの頃は自分の能力が追いつかず、例の17連泊もあったりとツラい日々でしたね。
ただ、その分喜びも大きくて。当時のパチンコは「潜伏確変判別法」や役モノ機の「ネタ」のような、攻略的に付け入る隙のある台が多かったんですね。攻略情報は確認・検証作業が必要なため、それを口実に激アツの攻略法を実践できるのは攻略雑誌編集部員としての喜びでした(笑)
その時代ならではの喜びがあったんですね(笑)
ちなみにその頃、ある機種の攻略情報を掲載したところ、攻略効果が高すぎてすぐに台が回収されてしまったことがあったんです。
メーカーの方からは「永山さんの記事でうちは○○億の損害出したんだよ!?」って怒鳴られたんですけど、ネットが急速に広がる中、あらためて雑誌の力を実感したというか、忘れられない出来事でしたね。
どんな形であれ自分の仕事が世の中に影響を与えるというのも、ある意味モチベーションに繋がる部分があったかもしれませんね。
次に、個人的に一番気になった-100点を0点まで引き上げたポロリさんの話なんですが。
この頃、8つ歳の離れた姉が他界したんですが、その姉がパチ番組の収録に駆けつけるような熱心なライターファンだったんですよ。特にポロリさんの大ファンで。
自分もせっかくこの業界で長く働いているからということで、面識もないのにポロリさんに連絡をとらせていただき、恥を忍んで「葬儀に弔電をお願いできないか」とお伝えしたところ、電話で快諾いただいて。
すごい良い話じゃないですか!
しかもそれだけじゃなくて。お伝えした当日にわざわざ遠方から足を運んでくださり、なんと通夜にも出席してくださったんです。
姉と一緒にパチンコの動画を見ていた甥っ子が「ポロリさんがお母さんに会いに来てくれたよ!」と誇らしげにしていて、見守るこちらも少し安らいだのを覚えています。
優しいサプライズですね…
本当に本当にありがたくて。
ポロリさんの帰りしな、どうしてここまでしていただけたのかお尋ねしたところ、「永山さんのお姉さんは、いつも収録で僕に会いに来てくれました。こんな大事な時に僕が行かない理由がありません」と丁寧に話してくださって。ポロリさんには本当に感謝と尊敬の念が尽きません。
そのとき、パチンコ・パチスロライターとファンの関係性の素晴らしさに胸を打たれたんですよね。
素晴らしいエピソードですね…-100点が0点というのは、そういうことだったんですね。
そうですね、あくまでプラスにはならないんですが、マイナスを打ち消しての0点ということで。
まさかこんないいエピソードが聞けるとは…そして最後が、ターニングポイントにも挙げられていた2019年を含む2016年〜2020年で100点と。
そうですね。やっぱり2019年に大きなイベントが重なったので、この時期の評価としてはそうなるかなと(笑)
ご自宅の購入に第一子誕生、さらに編集長就任ですもんね。普通の人が複数年に分けて体験するイベントをたった1年で味わうという(笑)。お子さんはやっぱり可愛いですか?
もう可愛いくてしょうがないですね!
お世話とか大変じゃないですか?夜泣きとか。
あ、これが良い子で。全然泣かないんですよ。
へぇー!
実は嫁さんが子ども連れて家に帰ってきたのがつい最近で、その前までずっと実家で預かってもらっていたんですよ。その頃はちょいちょい夜中に起きたりとかはあったんですけど、帰ってきてからは24時に寝て6時まで泣かずに寝ています。
親孝行ですね~。
親孝行なんですよ~。パパに似たんだろうな~(笑)
ちなみに将来、お子さんがパチンコ打ちたいって言ったら勧めますか?
あーーーーー!難しいッ!実は奥さんがパチンコ・パチスロに全然寛容じゃなくて、一番の壁が身内にいるという(笑)
奥さんが寛容じゃないんですね(笑)
なので、大人になってからでも連れて行くのは難しいかもしれませんね。息子が打ちたいと言ったら止めはしませんけど、「節度を持って楽しむように」みたいなことは言うかもしれませんね。
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