ガリぞうが射駒タケシとのアッツい思い出を振り返る【収支日記#78:2021年8月24日(火)~8月30日(月)】 (3/3)
8月30日:射駒タケシさん
稼働月間も今日で終わり、翌日からは再び出張が始まるので、今日中に所用を済ませておかねばなりません。日中はみぃ子のペット病院へ、それ以降は漫画用のコラム執筆を初め各種原稿の書き溜めに費やした1日でした。
月刊誌「スーパーパチスロ777(竹書房)」の3話読切作「BET ON(2001年)」から始まり、同じ誌面で「プロスロ-パチスロで勝つための王道-(2003~2017年)」、そして現在は隔月発刊の「スロマンV(ガイドワークス)」にて「プロスロ-NEXT-(2019~現在)」と、足掛け20年ほど漫画の原作や原案に携わらせてもらってます。パチスロライターの仕事内容を細かく聞かれる場合は、演者でもコラムニストでもなく「主に漫画の原作者」と答えるようにしています。それほどに漫画誌のお仕事は何よりも優先して真摯に向き合ってきました。
20余年前に漫画の依頼を頂いた際、最初に相談した相手は「やんちゃブギ」の主人公の射駒タケシさんでした。その後も私が岐路に立たされる度、射駒さんは数々の難問の相談に乗ってくれました。そこで今回は、漫画の主人公としても先輩の射駒さんについてお話していきます。
射駒さんと交流を持ち始めたのは、1999年の夏に私から送信したメールでした。当時の射駒さんは漫画誌にアドレスを載せていて、そこに個人ホームページ作成者として送ったメールがきっかけで交流を持つようになりました。主なやりとりはパチスロの機種情報で、当時から誌面に携わっていた射駒さんとの交流は毎回胸が高鳴っていた記憶があります。
そんな個人ホームページを運営しているだけだったパチスロ生活者の私に、1999年の秋口から「個人ホームページを見たのですが」と、いくつかお仕事の依頼が届き始めます。ただ、当時は人前に出るお仕事に全く興味がなく、かと言って断り文句も苦手なので、基本的には無視するようにしていました。
しかし、当時テレビ朝日系列で正午から放送されていた「ワイドスクランブル」という番組からオファーを頂いた時は興味本位で迷ってしまいました。まだネットよりテレビの方が影響力の強い時代でしたし、芸能人に会えるかもしれないなんてミーハーな感情も否定できません。
ここで私は射駒さんに初めて人生相談をします。出演すべきか否か、と。射駒さんからの返信には「知名度を上げて仕事にしたいなら受けるべきだし、そうじゃないなら受ける必要もないと思います。」と書かれていました。当時は気付きませんでしたが、思い返せば射駒さんはきっと「自らの意志をはっきりさせよう」と言いたかったのでしょう。
番組から頂いた出演依頼は「現代家族考」というタイトルで、現代に生きる様々な家庭を取材するという企画でした。つまり、私だけじゃなく嫁も人前に晒される事になります。ワイドショーですし、おそらくは「現代ではパチスロで生活しながらも家族を持つ若者もいる」的な番組構成にしたいのでしょうか。
そもそも知名度で商売していきたい気持ちも薄く、ただミーハーな感情を満たす為だけに家族を晒したいとも思えず、アドバイス通りに辞退させて頂きました。その旨を射駒さんに伝えると、「こちらにも衛星放送の出演依頼が来ました。俺は仕事として受けようと思ってます。」との返事が。間もなく彼は某番組の1コーナー担当として映像に初出演する事となります。
あの頃の射駒さんはパチスロライターと舞台俳優を両立していて、当時から表に出て仕事をしたいと考えていたと思います。そんな彼が主演の舞台があると言う事で、1999年11月に都内で開いた私のオフ会での上京がてら射駒さんの舞台を観に行きました。(このオフ会にはDragon Ashの櫻井誠さんもお忍びで来られていましたが、その話はまた別の機会に)
舞台に立つ面々は快賊船という劇団で、演目は「Rock Show」というタイトルでした。(射駒さんの舞台を観た事のある現役の業界関係者がいらっしゃったら当時の話を語り合いたいです。)真っ暗な舞台から一転、スポットが当てられ2人の演者が照らされます。演劇など観た事もない私は、それだけで「うわっ、恥ずかしいなー」と思っていましたが、劇が進むにつれどんどん引き込まれ、最後には大号泣していました。
演劇鑑賞が初だったので比較対象もないのですが、少なくとも私にとって射駒さんはガッチガチに本物の舞台俳優さんに見えました。この時、「射駒さんは舞台役者としても成功していく人なんだろうな」とおぼろげに思っていました。舞台が終わり、帰っていく客一人一人に劇団員全員が挨拶していましたが、私は射駒さんに名乗らないまま帰宅。思い返すと挨拶なしに帰った理由が何故なのか分かりませんが、若かったしきっと照れ臭かったんじゃないかと思います。
その翌月、1999年12月。射駒さんの旅打ち番組で北海道遠征に来られ、彼の計らいで「現地のパチスロ生活者かつ案内人」として私にも出演依頼が届きました。ちょうどこの頃から「嫁の両親に認めてもらう為」という邪心ながらもライター業として単発の記名記事を書き始めていたので、少しだけ出演させてもらう事に。これが射駒さんとの初対面(私からは二度目まして)となります。この時もパチスロ生活を脅かさないよう変装して身バレを防ごうと、髭を少し伸ばしサングラスをかけて出演しました。
この時のプロデューサーさんから気に入ってもらえたのか、その1年半後に射駒さんと私で台湾のパチスロを打ちに行くDVD企画が発案。この台湾に行く1週間前に竹書房から漫画の主人公の依頼が来ます。
相変わらず煮え切らない私は、台湾行きの飛行機の中で射駒さんに相談してみました。この時もワイドショーの時と似た返答がありました。ただ、きっと優柔不断な私を見かねてなのか「漫画なら顔がバレる訳じゃなし」というアドバイスも頂き、パチスロの勝ち方を伝えたい欲も強まってきた頃だったので、受けてみる事にしました。
私の漫画は3話読み切りから毎号連載に変わり、おかげ様で表紙も飾るようになり、単行本も発売される事になりました。ちょうどその年の正月。某社から「漫画をアニメにしないか」という依頼が私宛にありました。しかし、出版社が認める著作権料的な話で折り合いがつかず、「ならば漫画家さんを変えてアニメに」という提案を受けます。これが漫画業界的にアリかナシかが駆け出し原作者の私には分からず、ちょうど正月休みで東京へ遊びに来ていて射駒さん宅の近所で彼と呑む席があったので相談してみる事に。
「あかんっ!」
はい、正月の居酒屋のサシ呑み席で怒られました。「ガリさんは畠山さんと漫画を始めて単行本まで出せたんだから、畠山さんとは一蓮托生が然るべきで足を向けるような行為はあかんっ!」言われてみれば確かにその通りです。
ある意味、そこまで真剣に向き合ってくれずとも、私と畠山さんの仲が決裂すれば射駒さんの漫画が連載されているライバル誌的には好都合なのに、ここまで真剣に話を聞いてくれました。結局、アニメ化の話はお断りさせて頂き、おかげ様で畠山さんとは今も「プロスロ-NEXT-」で仲良くタッグを組ませてもらっています。あの射駒さんの一喝がなければ、今ごろ私はパチスロ漫画界から干されていたかもしれません。
射駒さんとの逸話は他にもたくさんありますが、長くなってしまったので今回はここまでにしておきます。どんな時でも彼からのアドバイスは「自分の意志を持って白黒ハッキリさせよう」が基本形だったと感じています。先月のように丸1ヵ月ほぼ家に帰れないほど忙しくなりながら「ライターは副業」と私が言い張り続けているのも、意志をハッキリさせる射駒さんのブレないスタンスを学んだからなのかもしれません。これからも自らの意志をしっかり持ち、「私は生涯パチスロ生活者」を貫き通して生きていきたいです。
尚、射駒さんは最近YouTubeチャンネル「イコマの楽屋TV」に力を入れているようです。以前には私も生配信に参加させて頂きました。(チャンネルにアーカイブが残っています。)生配信の他にも実戦動画や回顧録的な番組も楽しめる、あの「射駒タケシ」ならではの空気感満載のチャンネルを皆様も堪能してみてください。
以上です。結局、8月は十分な稼ぎを得られないまま終わってしまいました。ここ数年の稼働月収は、こうして数字が必要な記事を書いたり確定申告の時にのみ詳細を計算しているので記憶も不確かですが、稼働のみ月間なのに差枚数で万枚を超えなかったのは2年ぶりのハズです。(※編集部注:8月30日時点での差枚数は+10190枚でした)
やはり、パチスロ生活者たるやネジロを一軒失うだけでこうも簡単に朽ちかけるほど儚い立場なのだと改めて感じました。次回の稼働のみ月間の11月までは出張先からも地元のデータを洗い、安定した稼働ができるよう準備しておきます。
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