大崎一万発が望むのは「相互理解」?パチンコ業界の様々な議論を見て思うこと
開幕から日本選手のメダルラッシュが続き、世間もそしてマスコミも五輪熱狂の真っ只中。あれほど加熱した五輪反対論はどこへやら、あまりの空気感の違いにただ呆然としてしまうばかりである。開催前、為政者や体制派論者が「始まれば皆盛り上がる」「日本選手が金メダルを取れば忘れる」と言い放って顰蹙を買ったが、まさにその予言の通りになった。ものの言い方はさておいて、「下々」をよくわかっているもんだ、さすがっすよねと軽く尊敬したくなるぐらいである。
僕はコロナ下の五輪開催に対し、もとより反対ではなかったが(せっかくの国威発揚の場を潰すほどの脅威ではないとこの1年半のコロナ禍で見えたからだ)、否定する人にも「義」はあるのだからそれはそれで承るし、多様な議論が闊達でこその民主主義であるから論うようなことをするつもりもない。ただ、始まった以上は感情論だけで足を引っ張るのはやめてほしいと願うだけである。改めて、パラリンピックも含めた開催期間がトラブルなく無事に終えられることを心より祈っている。
さて、コロコロと移ろい行く世論の風向き、そして「下々」と「大所高所」での視点の違いを俯瞰していると、パチンコの世界も毎度同じようなことでワーワーやってるなぁと実感する。そもそもが遊技客vs業界の毟り合い構造だから立場毎のぶつかり合いも無理ないのだが、昨今は同属性内でもセグメント化して、関わり合いのない者からすると「?」な罵り合いが展開されているように見える(というか同様の議論は昔から繰り返されてきたのだが、ネットを通じ可視化されるようになったのが正しい見方だろう)。
ひとつ例に挙げるなら、遊タイムに関する議論。搭載機が世に出た当初、要不要論がエンドユーザーのみならずホール職域からも頻出した。曰く、遊タイムがあるから回らない、回せない。天井ドッカンがあるから使いにくい。夜の稼働が伸びない。拾い歩きが増えて殺伐とする、善良な遊技客が損をする云々。自分は打たない、嫌いだ論ならまだしも、廃止せよだの業界をダメにするだの、どこ目線かわからぬ強硬な意見も目にした。
僕自身は一貫して、遊タイム必須となったわけでもないし、選択肢が広がったことを喜ぶべきだとしか考えていなかった。気に入らなければ打たなければいいわけで、それ以上でも以下でもない。朝から行けない、短時間がメインの立場からすると「損」することも少なからずあるが、しかし遊タイムとはそういうものであるし、シモジモ最下流の僕でも、自分の遊技スタイルに合わないからと言って、メーカーがせっかく勝ち取ったスペック緩和を否定するほど了見は狭くない。
ホールにしても、使いにくいなら買わなければいい。朝イチがどうこう言うなら毎日リセットすればいい。というか、遊タイム込みでのトータルスペックはこれまでと同じなのだから、回せないなどと抜かすのは不勉強を晒しているだけではないのかと思ったりもした。
それが1年を経て、支持率に遊タイムの有無は関係ない、夜稼働が劣るわけでもないとのデータが揃い、また牙狼の大ヒットで不要論はすっかり影を潜めてしまった。僕自身、不要論者と何度も論争したが、あれは一体なんだったんだと、夢の中の出来事を思い出すような気持ちである。
人は感情で動くものだし、自分の損にはことさら敏感な生き物でもある。またパチンコ打ちは(ホールも含め)保守的に過ぎると言うのが僕の持論でもある。スタイル転換を強いられる件に対し、反射的に否定したくなるのはよくよく理解するところだ。しかし、理不尽な締め付けではない新しいチャレンジに対し、まず否定から入る、そして意見の違う他者を攻撃するのはいかがなものかと思う。今のパチンコに100%満足しているならまだわかる。しかし不要論者の多くは、パチンコの現状に不満のある人だった。ならまず変化を受け入れて、いい方向に動いていくことを期待するのが建設的ではないのか。
時間を経て理解と知見が深まれば、後にあーそうだったのかと気がつくこともあるだろう。もちろん、なんだかんだで「ダメ」と判断されるなら市場の要請に従って自然淘汰されていくだけだし、貫き通せないような拙速な感情論を展開するのは、殺伐とした空気感を招くばかりで何ら生産性はない。
デカ枠論争、優良店・優良客の定義、演者やパチプロのあり方、出玉イベント要不要論、宣伝広告の善悪、パチンコとパチスロの出玉バランス……立場によって「正解」が逆転するような議論が今日もSNSで繰り返されている。そこで敵を否定してもマウントを取っても、誰も勝者にはなれないのだ。重要なのは勝ち負けよりも相互理解。くれぐれも忘れないようにしたいと自戒を込めて思う。
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