大崎一万発が「今が一番面白い」と感じるパチンコと時代のズレとは?
明けましておめでとうございます。ようやくコロナ前に戻ったと安堵の声も多く聞かれた正月営業が明け、さあ心機一転の矢先にオミクロン株の感染拡大。素人考えでもゼロコロナなど不可能としか思えない状況下、この先もしばらくはこのうんざりするサイクルが繰り返されることになるのだろう。価値観の転換が迫られる中、リモートワークを中心とする新生活様式はもはや当たり前に定着しつつあるが、さてパチンコという昭和を引きずるアナクロな娯楽は、アフターコロナの社会に居場所を確保することができるのだろうか。
改めて記すまでもなく、パチンコ産業は90年代半ばをピークに斜陽の一途である。社会構造の二極化による中間層の喪失、少子高齢化、趣味娯楽の多様化、インターネットによる社会変革。要因は数挙げられるが、それらを端的に括るとすれば、ビジネスモデルとパチンコのありようそのものが「時代に合わなくなった」、そして「そのズレが年々拡大している」となろう。
パチンコはわざわざホールに足を運んで遊ぶ娯楽だが、遊技機やホールの造作は進化しても、その根本的な構造は黎明期より何ら変化していない。かつて栄華を誇った日本の映画産業はテレビに食われ、そのテレビもインターネットに追い詰められている。ゲームセンターは家庭用ゲーム機に食われ、さらにスマホが取って代わろうとしている。小銭稼ぎのギャンブル的要素を求めるなら、株式投資・為替・暗号資産・YouTubeといった分野にもスマホ1台で取り掛かれる時代である。不要不急がゆえ、手軽さとハードルの低さが最優先となる娯楽の世界で、むしろ旧態依然のビジネスモデルに立脚したパチンコがここまで踏ん張れた(踏ん張っている)ことを誇りに思うべきなのかもしれないが、いよいよもって次の一手を打ち出さないと「娯楽の王様」の座は風前の灯に思える。
それだけでなく、現代人の意識・価値観も、パチンコのありようとのギャップが大きくなっていると感じる。リスクを取りたがらない、徹底した現実主義の若者気質からすれば、負け前提の、しかも公営競技のような一発逆転もないパチンコに興じること自体がカッコ悪い。またパチンコはグレー、なあなあ、曖昧、先延ばしで事なかれを実現してきた日本的価値観の象徴でもあるが、シロクロはっきりのデジタル思考とは相容れるものではない。訳のわからないものにロマンではなく不安を感じる世相、興味を持って追求するほどに不快感が増す若い世代が多いのではないか。今まで通り楽しんで=負けてくれる客は、価値観の転換を拒む高齢者、しかしお金がないから賑わっているのは低貸コーナーばかりである。
パチンコは大当り(入賞)までのプロセスを楽しむ娯楽であり、すなわち興じる時間そのものに価値がある……なんて考え方は、今や完全な年寄り思考になった。右に全振りした新機種が次々登場して人気を博してはいるが、代償として大当りまではひたすら修行の時間であるから、時間消費型レジャーなどと綺麗事を言われても、当たらない限りはただストレスフルな時間を過ごしているだけに感じてしまう。集中するだけバカバカしい、当たるまで時間と身体を拘束されるのは時代遅れと考えるのも無理はない。市場のニーズとは言え、結果のみをゲーム性だと錯覚させギャンブル性を上げてきたツケでもあろう。
……と、考えるほどにどんよりする未来しか見えないのであるが、じゃあ今のパチンコがつまんないかと言われたら、逆に僕など40年近い遊技者キャリアに照らしても「一番面白い!」と断言できる状況なのがまたもどかしいのである。何も考えずジャブジャブお金を入れられ、しっかり余暇時間を確保でき、ただ運に任せて出た出ないを楽しめる立場の人には、確かに今のパチンコは最高である。どデカい連チャン引いたら、誇張なく夢見心地にさせてくれるパワーがある。しかしそう「楽しめる」のは一部の選ばれし人であり、庶民の娯楽とは縁遠いものになってしまった。
パチンコが絶滅することはない。しかしその未来像は(僕が生きているうちにそうなるかはわからないが)、キャッシュレス&リモート端末で遊ぶパチンコらしきゲームか、あるいは腹を括って1日を費やすカジノ的大型ホールに集約されるか、両極端なものになるだろう。一部は年寄りの社交場的にコミュニティの場として存続していく例もあるかもしれないが、いずれにしても今の形のまま残ると考えるのは無理がある。時代の流れには逆らえないし、それがいいことか悪いことか論じるつもりもない。ただ、パチンコがどうなろうと、変わらず楽しんで、全力で遊んでいきたい。それだけである。
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