ヒロシ・ヤングが社運を賭けてYouTuberに!ライターデビューから岡野陽一との番組裏話まで聞いてみた (1/3)
ヒロシ・ヤング
有限会社ゼイドンノウ代表取締役や演者だけでなく、番組企画制作まで幅広い肩書きを持ち、CS番組からWEB媒体などマルチに活躍するベテランライター。2021年5月より社運をかけたYouTubeチャンネル「ヤングちゃん、寝る?」を開設。ケバブが好き。- 『ヤングちゃん、寝る?』YouTubeチャンネル公式アカウント
- https://twitter.com/youngchannelTDK
- 万発・ヤングのガバ・ガバ・ヘイ!
- https://twitter.com/gabba2hey777
- YouTube「ヤングちゃん、寝る?」
- https://www.youtube.com/channel/UCMgF0QKQljMk1_i_GT44ksQ
- パチンコ滅亡論(新装版)
- https://www.amazon.co.jp/dp/4594088295
今回のエキスパートは「高田馬場からやって参りました」ヒロシ・ヤングさんです!
業界の大ベテランにデビューからの経歴や会社設立のきっかけをお聞きします!さらに、新人YouTuberになった裏側にも迫ります!
ヤングさんの番組ではおなじみ過ぎる、高田馬場のゼイドンノウ事務所にお邪魔しましたきっかけは「大崎一万発に誘われた開店プロ」
まずは経歴からお伺いしていきます。業界キャリアが「ラージな声じゃ言えないけど業界歴40年くらい」ということですが、これはパチンコに初めて触れてから40年経ったということですね。
そう。最初は中2でしたね。
友達同士でパチンコ屋に入ってから、今は54歳なんで40年くらいかな。
経歴の最初はパチプロからということですね。
事前に動画などを拝見して調べさせてもらったのですが、これは早稲田大学に在学していた頃ですか?
その頃は普通に羽根物の開放台っていうのがあって、打ち止めになってる台を時間が経ったり希望したりしたら開放してもらえるんで、それを打ったりしてましたね。
トータルだとちょびっとは勝ってたかもしれないけど、全然プロとかそういうことでもなかったね。
では、パチプロデビューは早稲田を6年かけて卒業されてからなんですね。
そうだね。学校を出た後か6年生くらいの時に、さかえ通りにビッグプレイってスロット専門店があったんですよ。
その店はガイドの人たちからはアニマル屋って言われてた店で、1階が全台アニマルで上が普通のスロットがある店で、そこのモーニングを取りにいってたんだよね。
モーニングの入ってる台の2台に1台くらいは高設定だったから、それを打ち続けて出すみたいな生活だったね。
その時はパチスロだけで生活できていたんですか?
レンタルビデオ屋のバイトもちょびっとしてたんですけど、開店プロに入るまではそういうセコいモーニングプロみたいな感じ。
髙田馬場(以下、馬場)にしかいないし、モーニングしか打たないし。
そこから開店プロのグループに入るんですね。
馬場の界隈でモーニング取ったり、アニマル屋に行ったりを続けていた頃にね。
USAって、今はセブンイレブンになってるパチンコ屋で良さそうな台を探しては打ったりしていたら、そこで久々に大崎さんに再会したの。
大崎さんとは早稲田でご一緒だったそうですが、この時は大学以来に会ったんですか?
そうそう。大学出て以来じゃないかな。あの人は4年でちゃんと出て、僕は6年かかって出たんで久々に会ったんだよね。その頃の大崎さんはもうガイドに入ってたの。
「何やってんの?」って聞かれて「馬場で地味にパチプロやってる」って言ったら「ガイドでパチプロにインタビューする企画があるけど、パチプロがいないから出てくれないか」って言われたんだよ。
その頃、俺はインディーのバンドをやっていて、ちょうど7インチレコードを出したばっかりだったので「レコードの宣伝を載せてくれるなら出る出る」って言ったら、そのインタビュー後に大崎さんが「馬場でモーニングのプロをやってるんだったら、開店プロ入ればいいじゃん。俺が紹介してあげるよ」って大崎さんの手引きで開店プロになったの。
開店プロというのは、いわゆる軍団とかグループ的なものですか?
完全にそうだね。著書の「パチンコ滅亡論」や「パチンコで生きていく技術」の中でも書きましたけど、いわゆる開店プロというのは世間的にはどうしようもない人たちが150人くらい集まって、新装開店で甘い台を独占するようなインターネットなき時代ならではの集団。
開店プロに関しては#3で詳しくお聞きします!現在では絶滅危惧種と言われている人たちですね。
そこから編集にはどういう経緯でなるんですか?
それもガイドがらみなんですよ。パチプロを3年くらいやっていて、バンドも辞めていた頃に「パチプロも飽きてきたな~」みたいな感じになってて。
そうしたら、大崎さんの先輩格にあたる人で、開店プロでも絡みがあったガイドの最古参のライターさんから「ある雑誌社から新しくパチンコ雑誌を出す仕事を引っ張ってきたから手伝ってくれないか?」って言われたの。
ちょうどパチプロにも飽きてきた頃だったから「面白そう、やるやる!」っていうのが編集者の始まり。
ちょうどいいタイミングだったんですね(笑)
そこからいわゆる編プロに入るんですか?
※編プロ:「編集プロダクション」の略称。出版社から依頼を受けて雑誌編集などを委託で請け負う会社
編プロに「入る」のではなくこれから編プロを「作る」っていう感じだったね。
既にあるものじゃなくて、自分たちで編プロを組織してやっていこうという感じになって、それを作ったところに合流した感じかな。
そこから色んな雑誌に関わっていくんですね。
そうなんだけど、俺が関わったのはいわゆるワンショットマガジンと呼ばれるものばかりだったね。
続くハズの雑誌も1冊出した後に社長が亡くなって終わったものもあったんですよ。
ええっ!?どういうことですか?
「CARトップ」って雑誌を出している会社が新規でパチンコ雑誌を出すということで「パチンコトップ」という名前のパチンコ雑誌を創刊したんですよ。
ただ、1発目の校了が終わってすぐに当時の社長が亡くなって、会社は息子が継いだんだけど、その際に「パチンコからは撤退します」って言われて1冊で終わっちゃったの。
それはかなり特殊な事情ですね。
そこから、しばらくはパチプロに戻っていくんだけど、色んな編プロに出入りしていた知り合いのイラストレーターさんから「パチンコ雑誌の編プロが人を探している」と聞いて、その人に繋いでもらって別の編プロに入ることになりました。
そこから「関わった雑誌が全て休刊していく」ということが起きるんですか?
そうそうそうそう!多分3~4冊は潰したんじゃないかな(笑)
それは先ほどのような特殊な事情も含めてということですね。
例えばガイドやマガジンよりも古い「パチンコマル秘情報」っていう雑誌があって、それがもういよいよ売上が悪くなって、取次ぎに通してもらえなくなる感じで終わる予定だった頃に合流したの。
※取次ぎ:出版社と書店をつなぐ流通業者
つまり、入る前にもう終了が決まっていたと。
だから、マル秘情報は予定通りというか、3~4号作って終わって、そこから同じ版元で同じスタッフなんだけど、誌名を変えて始まることになったんですよ。
誌名を変えると「新雑誌扱いになって、コンビニにも取り扱ってもらえるから」って理由で新雑誌を立ち上げるんですけど、それも1年持たなかったな。
そして、またもう1冊を別の版元から立ち上げるんですよ。それが「パチンコ必勝Web」っていうネット時代を先取りした雑誌なんだけど、先取りしすぎて誰もついてこれなくて1年も持たなかったけどね(笑)
みんな振り切っちゃった(笑)
ちなみにタイトルが「必勝Web」ですが、実際にWEBと関わりはあったんですか?
それがもうずさんな話で、ホームページにアクセスするためのパスワードをスクラッチ削って見ることができたんですけど、そんなもん人に教えれば誰も買わないよね(笑)
だから結局ホームページの更新も止まって、売り上げもたいしたことなかったんで、まあコンセプト倒れですぐつぶれちゃった。
あははは(笑)
でも、これがこの先に繋がっていくことになるんです。
最初のマル秘情報やその次の雑誌では結構なお金をもらっていたんですよ。「俺、パチプロだから月40万はもらえないとやらないよ」って言って本当に40万くらいもらってたの。
でも、そこから必勝Webになった時に「申し訳ないんですけど、思い通りのお金が払えないんです。その代わりと言ってはなんですけど、スカパーに専門チャンネルができたんですが、それに出る人がいないからそこに出てくれませんか?」って、そのギャラと込み込みで新雑誌も手伝いながらスカパーにも出始めたんですよ。
これがビッグチャンネル(現:パチテレ!)ですね。
そう、ビッグチャンネル。まだ2000年に開局して2~3ヵ月くらいの時で、ビッグチャンネルも全然出る人がいなくて、落語家の人とかタレントさんとかパチンコもよくわからないって人が出てたので、人を探していたんでしょうね。
その頃はCS番組に出るライターさんは少なかったんですか?
全然いなかったよ。そもそもパチンコの映像メディアってジャンルもなかった頃なので。
パチンコの映像元年はハッキリ覚えていますが2000年なんですよ。スカパーの専門チャンネルができた年。
それまではガイドのVHSくらいで、DVDもまだなかったしね。
映像よりも雑誌ライターの方がお金になっていた頃ですね。
もちろんです。まだ全然雑誌が上の頃でしたね。
この頃の名前はもう「ヒロシ・ヤング」だったんですか?
ヒロシ・ヤングはそのちょっと前くらいから名乗り始めましたね。
由来がこの事務所にレコードもあるニール・ヤングから取られていると聞きました。
そうです、そうです。
その前にはボ・地鶏と名乗っていた頃もあったということですが。
名前もその頃は適当で、付き合ってる女の子の名前とか、ボ・地鶏もボ・ディドリーっていうロックンロールの神様というか元祖みたいな人をもじって名乗ってましたね(笑)
でも、これは2~3回使ったくらいかな。
色々ある中でもヒロシ・ヤングで固定していこうかな、となった感じですか?
ヒロシ・ヤングの名前が一番広まったからかもしれないね。よくわかんないけど(笑)
まあ、すわりも良かったしヒロシ・ヤングになりました(笑)
すると、彼女の名前で広まっていたら彼女の名前になっていたかもしれなかったんですか?
大関プロとか大関ひろしみたいな名前でやってたんだけど、その彼女ともその後すぐ別れることになりました(笑)
彼女の名字が大関さんだったんですね。
そうなの。「ええ名前やな」って思ってたんで、「俺、婿入りしたらダメかな?」って親に言ったら死ぬほど怒られた(笑)
あははは(笑)
本家の一人息子の長男なんで。
今も住田家を支えているそうですいいね!する
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